47 南街のブラスバンド

47 南街のブラスバンド

 昭和初期、農村大恐慌で農家の暮しは苦しく、大変な時期がありました。
 大和村では、農業をしながら現金収入の道を考え、工場を誘致することにしました。
 昭和十三年村の南は畑ばかりで人家のない寂しい所でした。ここに東京互斯電気工業㈱が飛行機のエンジンを造る工場を建設し、翌十四年にこの会社と日立製作所が合併して日立航空機㈱立川工場となりました。大和村の人も工場へ働きにゆきました。
 太平洋戦争に突入し、工場は政府からの指示を受ける強力な軍需工場(社宅一、000戸、寮三七棟)となりました。
 大和村本村の人も、社宅の人も一致協力して、神風特攻隊が使用した単発機のエンジン生産に励んでいました。
 工員の中で若年者は当時義務制度であった青年学校で教育を受けていました。
 校舎は、会社の北側に大きな建物があり、一階は日立航空機㈱の事務所、二階が青年学校の教室でした。

 生徒は二、○○○人位いたでしょうか、昼は工場で働き、仕事が終ってから授業を受けるのですが、年間の学習内容がきまっていて日中の授業のときもありました。地元のセナ(長男)以外の少年は、工場で働きながら学校に通いましたが、地方から来ている者の方が多く生徒のほとんどが寮生活をしていました。

 会社からブラスバンドをつくるように言われて、青年学校に音楽部を設け現在も南街にお住いの田畑重一さんが指揮にあたりました。週三回の授業のうち一回は、陸軍戸山学校軍楽隊副隊長の中尉が来て指導してくれました。
 当初は五~六人で発足しましたが、そのうち五十名位で編成された吹奏楽団となりました。工場では作業に入る前に朝礼があり、国旗掲揚のときの国歌と、工場歌を青年学校のブラスバンドが演奏しました。
 練習は作業が終ってからやりましたが、必要に応じて時間のやりくりをしてもらえました。青年学校の教練のときブラスバンドを先頭に、芋窪方面や志木街道を東村山の方までも行進練習に行きました。このときの演奏曲目は、愛国行進曲をはじめレパートリーは二十曲位でほとんどが軍歌でした。

 昭和十八年の頃、工場への資材運搬のため会社が今の玉川上水駅、上り線の所から国分寺まで単線で引込線をつくりました。この引込線完成の日、初運転を迎えてブラスバンドが「軍艦マーチ」で歓迎しました。

 戦争もたけなわになり、各種の職業の人が続々と徴用工として配属されてくるようになりました。作曲家、器楽演奏者など音楽を専門とする人達も来ていました。戦後有名になった上原げんと、白井けんみなどの作曲家や演奏者の方がたが青年学校音楽部の指導もしてくれました。

 会社では、この人達にジャズバンドをつくってもらい厚生課に籍を置き、工場の食堂で昼休みと夕方の三十分を"一機でも多く早く前線へ送ろう"と生産増強に励んでいる工場の人達に、ひと時の安らぎと意気向上のため、歌謡曲や軍歌(主に歌謡曲)を毎日演奏していました。また日立系の他の工場にも会社の車で慰問して廻り、千葉県など遠い工場のときは一泊でゆきました。このバンドの編成は七人でバイオリン二名、ベース、ドラム、チェロ、ギター、ピアノは紅一点、アメリカ帰りの女の人が弾き、歌手が一人、この八人で行動していました。
 いよいよ戦いもはげしくなり、青年学校生徒のブラスバンドの演奏も訓練もできなくなり、朝礼、昼の演奏等もなくなりました。
 昭和二十年二月十七日と、四月二十四日の爆撃で日立工場も大きな打撃を受け、まもなく終戦を迎え、それと共に楽団活動も終りました。
(東大和のよもやまばなしp105~107)